<< 「若い内に苦労する」 | main | うつ病(思考不全)の改善に向けて >>

人物伝 「その1」・・・鈴木初路

苦を乗り越えて・・・我が人生ここにあり。

鈴木初路
1936年、昭和11年11月7日、東京都成城に5人兄弟の上から3案番目の長女として生まれる。 77歳になった今、ふと過ぎし日を振り返る。

初路は父・内田忠宏、母しげの元に生まれる。
父も母も熱心なキリスト教の信者であった。
幼時期は協会の幼児生活団(現・幼稚園)に通う恵まれた生活をしていた。

父方の祖父は明治天皇時の皇居を守る憲兵隊長(内田忠直)、父親は理系の内田研究所を開き、海軍省からの依頼で兵器製造を担当し、主に魚雷の研究をしていた。
母方は山形県の御殿医を代々勤め、一族は医療関係が多い。
母方の叔父は大平徳三といい九大の名誉教授を勤めた人で、野口英世氏がロックフェラー財団に向かって渡米するとき、同行した青年2名の内の1人でもある。
また叔父の1人は日銀総裁として勤めあげた。

終戦後は、
父親の仕事の関係(海軍省の兵器製造の研究者)で、進駐軍から身を隠すような生活を強いられた時期もあった。。
生活環境が目まぐるしく変わり、小学校は都内の開新小学校に入学するも6回の転校を繰り返す。
それでも父は「計算尺」を作る会社に入り、
今では知る人も少ないが、「リレー計算尺」などの開発に取り組んだ。
その後の計算機の発達により、これも挫折した。

父方は軍関係の家系で母方は医者の家系、終戦を境に生活環境は大きく変わった。
兄たちは今でいうアルバイトをしながら長兄は都立大学、次兄はアルバイトで資金を作り独学で一級建築士になった。
初路は戦争という時代の波に飲み込まれた中で「医者になる!」と向学心に燃えていたが、
奨学金を受け川越の女子高を卒業するころ大学進学を諦めた。
やるせない思いの中で踏ん張り、就職を決意した。。
女子高を卒業と同時に日立製作所の本社に勤務し、21歳で結婚するまで勤めた。
その後2児(娘)の母親として、15年間を専業主婦として過ごした。
今思えばこの15年間も心は外に向いていた。

父親は数学者でもあり理系の研究者でもあった。
父の口癖は「ゼロは無限大」だったが、
母親はそんなことを言うから家庭が「ゼロ」になったと父に言うときもあった。

夫は現ブリジストンの子会社の役員として、生真面目だけが取り柄の人であった。
それも26年前に他界し、今はいない。

子育ても一段落した36歳のころ、大手の生命保険会社に勤めた。
母方の従兄弟を心のどこかで意識し、保険セールスに没頭した。
部下の教育には、熱心なクリスチャンであった母の教えを守った。
この時期、子育てより仕事に没頭した。
直ぐに機関長となり営業成績では全国制覇を3回し、トップセールスレディとして自信がみなぎった。

そんな時 父方の従兄弟から話がきた。
父と同様に従兄弟も研究者で、いろんな物を研究開発していた。
「道路工事用信号機」なども含め製造販売したい・・・協力してくれ。
飛ぶ鳥を落とす勢いに迷いはなかった。
即座に決めた。
42歳で女実業家として起業、信号機などの製造販売に取り組み夢中になった。
次々に大量の注文がきて・・・有頂天になった。
納品後に詐欺だと分かったが・・・遅かった。
3年ほど頑張り抜いたが倒産した。

医者や大学教授になっている母方の従兄弟を意識し、ここで諦める訳にはいかぬと決意。
米国製の油(工業油)添加剤を販売する事になり、これも販売実績はアジアで1位。
夢中になって販売するほどに「汗臭く腐った古(ふる)雑巾」のような油の臭いが身に付いていたのだろう。
それまで何も言わなかった夫が「一言」いった・・・そんな仕事はやめろ!。
夢中になると周りが見えなくなる性格・・・分かってはいたが、仕事を辞めた。
それでは夫や周りに迷惑をかけない仕事・・・何かないかと探した。

「TDK]という会社があるが、TDKの開発した学校教材などを販売委託されている会社があった。
その会社は使い捨てカメラなどを開発・販売する会社であった。
その会社に男性営業マン募集があったが、女性として特別に見習いで使用期間3ヶ月として入り、その後は役員として数年間を過ごした。
この時の経験が大きな財産となった。
いろんな広告媒体を使って販売していたが、
あるとき「日本・ロシア」合作映画作りに協力して欲しいとの依頼がきた。
協力し、何度かロシアにも行った。
仕事の内容は映画の「資金作り」が主になっていった。
 一息ついた頃、
知る人ぞ知る高田馬場にある彫金工房、「あき工房の林先生」に弟子入りした。
今度は油の臭いもしない、ロシア行きもない。
彫金師の弟子として入ったが、それもつかの間、工房の専務として経理・人事などを担当するようになり7年間勤めた。

バブル景気が華やかし頃、生活に余裕ができた。
住んでいる大宮の家を売る予定で、
東京の世田谷に1億円ほどかけて3階建ての土地付き住宅を購入した・・・が、それが苦しみの始まりだった。

年老いた母親が1人で生活していた。
引っ越しをして母のそばに行った。
不要になった大宮の家を売ることにしたが、その時はバブルが弾け飛んでいた。
売るには二束三文の価値しかなく、売るに売れなかった。
購入した世田谷の3階建ての家は、価値が下がり多額の返済だけが残った。
医者になる夢も実業家になる夢も消えた。
その時62歳、相談する夫はもういなかった。

「よし やるぞ!」と決め、2度目の起業をした。
それから8年間、もう一度がむしゃらに働いた。
車の中で寝ることもあった。
返済が終わった時は70歳になっていた。
「もうこれで良い!」と、東京の家を売り払った。
娘がいる博多でマンションを購入し移り住んだ。
もう70歳と自分に言い聞かせ、焦らずゆっくり生活しょうと決めた。
そんな思いもつかの間、長女がガンに犯され亡くなった。
仕事仕事で娘2人には寂しい思いをさせた。
自分を責めた。

その頃周りの人は、「冬のソナタ」に心を奪われていた。
見知らぬ街で話し相手も少なく、人並みに韓流番組の「とりこ」になった。
娘の薦めもあり、韓国が発祥の「観術」という心の修行場に興味を持った。
韓国にも行った。
語学にたけていた父親の影響なのか、夢中になり、韓国語もハングル文字も学んだ。
言葉も文字もマスターした。
娘から学びタブレットも使いこなしている。
韓国からくる観光客相手の通訳でもして、少しでも社会の役立ちができればとも思った。

時折70年間お世話になった東京の生活が心をかすめる。
幼いころは、東京のどこからも富士山が見えた。
焼け野原から立ち上がり、高速道路や東京タワーができ新幹線が走りオリンピックもあった。
走馬燈のように東京が、東京の生活が、心をよぎる。
だが父も母も、夫も、かけがえのない娘も、今はもういない。

今 鈴木初路77歳。
世間では後期高齢者というらしい。
それでも心に宿るのは、
仕事にかまけて不自由な生活をさせた近くにいる娘のことだ。

残りの人生、
娘の幸多からんことを願い、
少しでも社会の役立ちをしていこうと「心に決めた!」
日韓親善、韓日親善。
もうどこの国とも争いは嫌だ!。
      
    「後記」
 毎年自殺という形で「親・兄弟・子」を亡くされた家族が増えています。
 私もそのような家族のひとりですが、
 身近な人の死は、どのような慰めの言葉も、疲れた心の解決にはなりません。
 それでも亡くなっ人に感謝し、生きる目的を持って生き抜いていかねばなりません。
 
 また疲れた若者が多い社会ですが、
 我が子を亡くされ苦労を重ねた女性が、周りには苦労を「苦」として見せず、
 70の手習いで韓国語をマスターされています。
 会う度に、明るい笑顔を振りまいて生活されています。
 目的を持って生きることがどんなに大切か、見習っていきたいと思っています。
 
 また筆者が、
 父方・母方と意識的に強く表現していますが、これは筆者の勝手な主観であり、
 ご本人は「父方・母方の従兄弟さん」とも仲良くされていることを付け加えておきます。

                          文責 相良五郎
posted by: sagaraki | - | 14:04 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
コメント
 
2014/07/22 5:34 AM
Posted by: 黒瀬 和子
初路ママの人せい、万歳ーイ・・・
ママの生活は即社会の宝です。ぜひ、これからもママの今のまま進んで下さい。いつも側にいます。
2014/07/22 10:58 AM
Posted by: 鈴木 初路
ありがとう!! ワコちゃn!
福岡に来て、観術に出合い、さがら療法に出合い、そしてあなたとの出合いが私の宝です! いっしょに歩んでいきましょう! よろしくね!









トラックバック
 
http://sagarablog.kokorojp.net/trackback/378